高瀬川今昔

PAST AND PRESENT高瀬川今昔

  • 方広寺・大仏再建をきっかけに
    開削された高瀬川

    高瀬川開削のきっかけとなったのは、方広寺大仏殿の再建工事と言われています。

    この工事の資材運搬を請け負ったのが角倉了以。彼はまず鴨川の開削を実施しました。しかし、ご存知のように鴨川は過去幾度も氾濫をおこしてきた川。いつなんどき、使用不可能になるかもしれません。そこで安定した水路の確保を目的として開削されたのが高瀬川なのです。

    慶長16年(1611)より着工、二条から東九条まで水路を開き、東九条で鴨川と交差、さらに伏見まで水路を伸ばし、淀川へ合流させるこの大規模な工事は慶長19年に完成しました。

  • 京と大阪を結ぶ交通要路

    京都と大阪を結ぶ高瀬川は、物資の運搬においても重要な役割を担っていました。その高瀬川で物資の運搬に用いられたのが高瀬舟です。

    長さ約13m、幅約2mと底が浅く平らな高瀬舟は、浅川専門の舟として高瀬川以外の川でも運行されていました。この舟を利用すれば、運河の川底も深く掘る必要がなくなります。当時の高瀬川においては、開削当時より高瀬舟の使用を前提としていたかのように、水深約30cmと非常に浅い運河でした。

    ちなみに高瀬川という名も、この高瀬舟が行き来されるところからつけられたという説があります。 大阪から淀川を運ばれてきた荷物は、伏見で一度おろされると、その日のうちに高瀬舟に積み替えられ、高瀬川を上り、京の都へと運ばれていたそうです。

  • 船頭たちの声

    高瀬川は、狭い川幅を有効利用する為に、午前は京へ運び入れる上り便、午後は京都から運び出す下り便と、一方運行でした。
    下りは水流があるので楽に進めましたが、上りは舟につけられた網を「曳き子」と呼ばれる数人が川沿いの道を「ホーイ、ホイ」という掛け声をかけながら川筋を上っていきました。

    この風景は江戸・明治時代の名所図絵などにも描かれるほどの京都名物の一つでした。最盛期には約200隻もの高瀬舟が運行していましたが、他の交通機関の発達により、次第に舟曳きの光景も見られなくなりました。

    そして、大正9年6月に、高瀬川舟運はその長い歴史の幕を閉じ、運河としての役割を終えました。角倉了以が開削してから306年後のことです。

  • 木屋町通り

    木屋町通りは高瀬川開削当初、人一人通れるほどの小道でした。寛文年間(1661~1672)になって鴨川の両岸に新しく堤が築かれ、高瀬川と鴨川の間の河原に土が盛られ、家々が立ち並び、木屋町、そして多くの街や通りが発展しました。

    開削の経緯も手伝ってか、この川沿いの道には材木商が軒を並べていたため、当初は樵木通り(こびきどおり)と呼ばれ、享保年間(1716~1735)には木屋町と呼ばれるようになりました。

    木屋町通りは、明治期の半ばに入ると日本最初の電車が走った通りとして名を馳せました。京都内国勧業博覧会の会場に向けて、日本で最初の発電所、琵琶湖疏水による発電電力を使っての運行でした。

    この電車の開通工事に伴い、建物は壊され、道幅が広げられました。そして、市電が河原町を走るようになり、木屋町通りの運行廃止に伴って、川沿いに木々が植えられ、道も整備され、現在の姿になりました。

  • 遊興・納涼の地 木屋町

    文化文政の頃から四条河原町一帯は遊興・納涼の地として大いに賑わい、料理屋、茶屋、旅館が軒を並べ、河原には納涼床が出されていました。

    木屋町通りも例にもれず、材木商よりも料理屋や旅館が勢いを増しました。明治に入ってもその勢いは止まらず、料理・旅館街として大きく変わっていきました。向かいに高瀬川、部屋からは鴨川と東山が眺められるという立地を活かして発展してきました。

    木屋町通りに面した料理屋・旅館では5月1日になると鴨川に面して床を設けます。江戸時代に賑わった四条河原町の納涼床の伝統を今に伝える風流な催しで、京都の夏の風物詩となっています。

    高瀬川と木屋町、決して大きくない地域ですが、京都の産業経済発展に計り知れない影響をもたらしてきたのです。

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